Mi viaje a Sudamerica             
                 


9:  サンチアゴ  <チリ>  (11月2日〜)

太平洋岸に長く(4,300km)のびる国チリの首都,サンチアゴ。
国土のほとんどが,”30cmのモノサシ”の幅と長さに収まってしまう位のチリの地理。
上から”12cm”位の所に,サンチアゴはある。
東側には,南米最高峰のアコンカグア(6,962m)を中心としたアンデスの峰々が連なり,
西方は海にも近い。チリの総人口の1/3,約500万人以上が住む大都会である。
古くからしっかりした街造りがされたようで,中心部は古い建物も近代的な建物も落ち着いた
都会の雰囲気がある。もちろん大都会だから,人々で賑わう楽しそうな通りもある。
しかし,街歩きの好きなUsazitoにも,短時間ではどうにも大きすぎて捕らえどころのない町に思える


< これが,サンチアゴ:Santiago の街だ >

何はともあれ登らなくては,とやってきたのは サン・クリストバルの丘
(10年前,出張でこの街に3泊した事があるが,ホテルと仕事の往復ばかりで登れなかった!)

【 サンチアゴ中心部 : サン・クリストバルの丘から南西方向 】
森林公園(斜めに走る緑)の向こう,セントロ:旧市街と,サンタルチアの丘が見える



Funicular:ケーブルカーで登った丘の上では,
大きなマリア像が街を見守っている。
広い市街が見渡せる好い場所だ。
季節によっては,排ガスによるスモッグがもっと
ひどいと言われているが,この日はまあまあの
ようだ。

ここで,日本人の女性バックパッカーに会った。
勤めていた会社をやめ,一人で南米の旅に来た
との事。これからイースタ
ー島を見てからブラジル
のサルバドールまで行く
という。
 無事な旅を祈らずには
 いられなかった。


  【 サンチアゴの中心;アルマス広場 → 】

正面の2つの尖塔は,チリ・カトリックの総本山:
大聖堂教会。
郵便局,博物館等興味深い古い建物と,近代的
ビルが同居している。

手前の騎馬像は,サンチャゴの街の創設者(=
侵略者)の,バルディビアの像。


* 侵略した方,された方の現代の子孫達は
  どういう気持ちでいるのだろう?
  この旅で,また”南米”を考える時,浅学のUsazitoにもいつも少し引っかかる問題だ。


   【チリ:CHILEについて】・・・ Usazito の独り言。

  チリのサンチアゴ と言うと,31年前の9月11日,社会主義国家樹立を
  推し進めていたアジェンデピノチェトの軍事クーデターに最後まで抵抗して,モネダ宮殿
  に立てこもり倒されたニュースを,いまだに覚えている。Usazitoが30歳の頃の事である。
  「なぜチリが社会主義化?」と不思議に思い,「完全に社会主義国家にならなくてよかった」
  等と,ノーテンキに思っていたが,
  約500年前のスペインによる侵略から現在にいたるまでの,チリの歴史,政治情勢の激動は
  モノスゴイ,ものであったらしい。
 
  インカも敵わなかったというチリ南部の原住民の執拗な抵抗に長い間悩まされながらの
  植民地時代と,スペインからの独立。金銀は出なかったけれど,北部に発見された銅鉱山
  開発と操業による莫大な利益。その巨大な権益を牛耳る内外の一部資本階級とそこに働く
  貧しい労働者。さらに鉱山権益をめぐるペルー,ボリビアとの戦争。
   肥料や火薬の原料としてチリの重要な産品であったチリ硝石も,化学合成の薬品が開発さ
  れるとその価値を失ってしまう。激しいインフレと貧困層の拡大,中産階級層と
  一部富裕層への不満。そんな長い重い歴史背景の中,左翼,極左から極右勢力までの激しい
  政治対決が繰り返され,左傾化して行ったのだろう。
  
 
  第2次世界大戦以降の東西冷戦のせめぎ合いの中,混乱を増しいよいよ左傾化していき
  理想(幻想?)を求めてついにアジェンデが選挙で選ばれ社会主義政権が成立する。(1970年)。
  (ノーベル文学賞を受賞するチリの詩人)パブロ・ネルーダも一時は共産党の大統領候補として
  選出されていたが,最終的にアジェンデが統一候補となった。
  アジェンデは,当時のソ連など社会主義国を歴訪し,国内では銅山をはじめ大企業を次々と
  国有化していく。大規模ストの続発,国内混乱,キューバのカストロのサンチアゴ訪問とアジ。
  なんとしてもチリのキューバ化を防ぎたいアメリカの工作。
   ついに軍のピノチェト将軍がクーデターを起こし,アジェンデはモネダ宮殿で死ぬ。(1973年)
 
  ピノチェトは,徹底的な左翼弾圧を行い有名無名の多くの人々を捕らえる。
  この時捕らえられ行方不明となった人は,数千人とか。
  今現在でもその人々のゆくえを求める家族のデモがサンチアゴで行われているという。
  2004年に放送されたNHKの番組でこの事が詳しく描かれ,抗議の象徴のように
  チリの名曲 ”Gracias a la vida”が唄われていた
  チリの”Nueva Cancion :新しい歌”の旗手,ビクトル・ハラもこの時,殺された。
  
  一方,経済の再生とその後の民政化は達成され,今では落ち着いた発展の中にあるようだ。
  ピノチェトはその後,ヨーロッパに渡ったがつい最近スペインによって”虐殺”の疑いで逮捕され,
  チリに送還された。
  2004年現在,裁判に耐えるか否か,不逮捕特権が有効か否かと議論されている。
  クーデターで殺されたアジェンデの娘さんは今,下院議会の議長を務めているという。
  今につながっている,チリの暗い現実の一面であろう
  
  日本では経験もなく実感も出来ない激動。中南米ではほとんどの国が体験している,原住民と
  侵略者,抵抗,植民地化,独立,移民流入,独裁(的)政治,軍事政権,貧困と富の偏り。
  そんな中で,自分達の選挙で社会主義まで経験してしまった チリである。

   この旅のサンラファエルのピクニックのランチの後,くつろいだ会話の時。
  全容はとても聞き取れないが,チリ,スペインからのツアー仲間の人達の話が
  「ピノチェトがどうこう・・・」と政治の話になったなーと思って聞いていたら,突然私に向かって,
  ところでハポンのアミーゴよ,お前は右なのか,左か?:La derecha o la izuquierda? 」
 
 と聞いてきてびっくりさせられた。言葉もろくに判らない東洋の旅人:兎爺にまで
  政治と議論,自分と相手の主張を尊重するこの人達の背景と態度が,垣間見られた一瞬だった。
                        
                         * * *

さて,サンチアゴの街歩きはあっさり切り上げ,ここでは日本から依頼しておいたペルーのマチュ・
ピチュのツアーチケットを受取りに,日系旅行社の三谷トラベル(Andes Nippon Tourist)をたずねた。
ペルーに入ってからではせわしないので,ここで手配してもらっておいた。
日本から赴任している若い女性が優しく日本語で!説明してくれ,何だかホッとするUsazitoだった。
これで,最後のハイライト,マチュピチュ観光もバッチリだ。

この旅もほぼ2/3の日程が過ぎ,日本人にも会い,流石に日本食が食べたくなり出かける。
その名も”Restaurante Japon”。久しぶりに本格的なお刺身つきの天ぷら定食,冷奴なども頂き
おおいに満足。ヤッパ日本人には,冷奴だ!
 カウンタに並んで,駐在員と出張者風のビジネスマン,学会に参加の為来たお医者様のご夫妻,
それに始めて日本食を食べに来たチリの青年に箸の使い方を教えたりしながら,板前もまじえて
久しぶりに日本語の会話がはずんだ。ニホンゴはらくでいい!




さあ大都会サンチアゴを後に,海岸リゾートの街,ビーニャ・デル・マルに行こう!